『世界のかわいいカップ&ソーサー』 で “ スージークーパーの魅力 ” が掲載されています。
2012年4月13日刊行 / 明石和美著 誠文堂新光社刊 / P.41-P.44
スージークーパーの魅力は? “ 何とも言えない雰囲気 ” ・・・
では、我々を魅了するその “ 雰囲気 ” とは何なのでしょうか?
「 スージークーパーの魅力 」
スージークーパーを扱うアンティークショップを営んでいる私はお店にいらっしゃるお客様に、スージークーパーの魅力って何ですか?とよくお聞きします。
それに対して一番多いのは“何とも云えない雰囲気”と云うお答えです。
では、我々を魅了するその“雰囲気”とは何なのでしょうか?
私は、それは紛れも無く“日本”だと思っています。誤解を恐れず言えばスージークーパーは“いわゆる西洋骨董”ではありません。和骨董だと云えば嘘になりますが、“いわゆる伝統的な西洋の骨董品ではない”のです。
日本ブームの英国で生まれ育ったスージー
ここで彼女の生きた時代について触れておきたいと思います。
彼女は1902年10月29日に生まれています。
因みに、1900年にはハリウッド映画“北京の55日”で有名な北辰事変(義和団の乱)が起きています。この映画にも出てくる柴五郎中佐の素晴らしい働きが英国を日英同盟へと決断させたとも云われています。
同年、新渡戸稲造の“BUSHIDO The Soul of JAPAN”がベストセラーになり空前の日本ブームが起こります。
そして、1902年に日英同盟締結、その後20年以上に渡って同盟関係が続きました。1904年には日露戦争が勃発し、小さな島国の日本が大国ロシアに勝利して世界中を驚嘆させます。
このような日英蜜月時代、そして日本がその勢力を世界に伸ばして行く時期にスージーは、豊かなイギリスの家庭で育っています。
スージーの父ジョンクーパーは裁判官や教師をしながら食料品、雑貨店、農園なども手広く経営しており、地元の名士といった人でした。ところがスージーが11歳の時に他界してしまいます。
スージーは私学校を退学して15歳の時に地元バースレムのアートスクールに入学しますが、そこで才能を見いだされた彼女は19歳で、恩師ゴードンフォーサイスの助言により地元の陶器製造会社グレイ社に入社しました。
ここで彼女は多くのヒット作を生み出しますが27歳の時、独立を決意します。
若い才能を開花させた1930年代
独立後の1930年代はまさにスージークーパーの時代というに相応しい時代でした。
1931年ノーズゲイ、1932年ウェディングリング、1935年ドレスデンスプレイ、1937年エイコーン、1938年パトリシアローズ、1939年パネルスプレイなど今も人気の高いデザインは全てこの時代に集中しているのです。この間スージーは結婚もしています。
しかし社会的には1929年ニューヨークの株式大暴落に始まる大恐慌、そして1931年に満州事変、1933年にヒットラー政権誕生、1937年にはシナ事変勃発、1939年遂に第二次世界大戦勃発と、嵐の時代が続いています。
スージーの生きた時代はまさに戦争と混乱の時代でしたが、同時に女性の時代でもあったのです。
英国の陶郷と呼ばれるストークオントレント周辺では、スージーと同様にクラレスクリフ、シェリー窯のシャーロットリード、花器のデザインに才能を発揮したキースマリーら女性アーティストたちが活躍、英国工芸の歴史に名を連ねています。
スージークーパーに見るジャポニズム
こうして見て来ますと、日本、戦争、女性、大恐慌、とスージーの生きた時代のキーワードが見えて来ますが、なかでも私は特に“日本”と“大恐慌”に注目して見ました。
スージーは豊かで教養のある英国家庭で教育を受けましたから日英同盟の20年間は、当時注目されていた日本の文化もおおいに吸収して育ったと私は想像しています。
また陶磁器を学ぶ者は必ず中国や日本の焼き物を学びますが、スージーのデザインの奥には日本の古伊万里などの影響があると思っています。
例えば、スージーに最も多いデザインの基本はグラデーションです。カップのリム(縁)やお皿に見られるボカシですが、これは伊万里の吹き墨から来ています。あるいは、パネルスプレイに見られるパネルも伊万里の窓絵そのものです。
また、スージーのかわいいの基本はドンティルなどに見られるドットのデザインで多くのスージー作品に出て来ますが、これも古伊万里の雨降り柳からヒントを得ています。
つまり、スージーは基本がジャポニズムにあると思うのです。
もうひとつのキーワードは大恐慌です。
スージーの独立した時代は今以上の大不況でした。何しろ米国のGNPが半分になった程です。
そんな時代に成功したスージーの魅力とは何でしょうか?
一言で云えば、“ソフィスティケイテッド”です。日本語で云うと都会的で洗練されたと云う意味でしょうか。
19世紀の英国と云えば栄華を極めたように思われがちですが、内実は徐々に衰退への道を歩んでいました。20世紀初めの英国はビクトリア時代の価値観を脱し、都会的でかつ美しい機能美を求めるようになっていたのです。
日本ではビクトリア時代に代表される華麗な装飾美を称賛する向きもありますが、19世紀の英国はまさに華美によって疲弊していったと云っても過言ではないでしょう。
スージークーパーは徹底的に華美を排します。 彼女のデザインには、金彩で埋め尽くすような19世紀的で豪奢な食器は全くと云って良いほど存在しません。
それは、華美や過剰さを嫌うワビ、サビ的美意識や、計算された余白が重視される日本の美術工芸にも通じる感性です。
クィーンオブマザー(エリザベス女王の母君)もスージーと同時代を生きた人ですが、スージークーパーが大好きで朝食にもスージーのブレックファーストセットをお使いでした。
では、どのような人達が1930年代当時にスージークーパーを熱狂的に支持したのでしょうか?
それは、大恐慌のなかで頭角を現わしたニューリッチ層でした。弁護士、医師、判事、起業家、デザイナー、音楽家などのアーティスト達です。 彼らは都会的洗練を好む人たちでした。
19世紀的な華美を古臭く感じ、スージーの中に新しい時代の上品なセンスを敏感に感じ取っていたのです。
日本の若い女性が見出したスージーの価値
私は現代の日本のお客様にも全く同じ感性を感じています。
日本で最初にスージークーパーが大人気になったのは1990年代でした。
当時は20代の若い人たちが中心で、雑貨ブームでセンスを磨いた女性たちでした。伝統的な西洋骨董のお客さまではなかったのです。現在は40代になったこの女性たちのセンスの良さがスージーをアンティークに育てたのです。
私の家では、お茶もパンもケーキもスージークーパーの器を使っています。
朝昼晩の食事もスージー、和食はもちろん、お寿司からお正月のおせち料理まで全てスージーの食器で頂きますが、全く違和感なくしっくりと日本の料理に馴染んでくれます。そして現代日本の家庭のインテリアにも無理なく溶け込んでいます。
そこが、スージークーパーの魅力なのです。
よく100年経たないとアンティークでは無いと云われますが、100年云々と云うのはもともと通商関税法の関係で取り決められたもので、私は年数にはあまり意味がないと思っています。
例えば、私が何か作ったとして、100年経ったからと云って誰もアンティークと呼んではくれません。
年月が経ってそれが生まれた時よりももっと評価(価値)が上がった時、それがアンティークになるのです。
スージークーパーを日本人がブームにした(だから価格が上がって困る)と云う人がいます。確かにスージークーパーは日本での人気をきっかけにイギリスでも再評価され、その価値(つまり価格)が上がりました。
19世紀の日本人は、浮世絵などの版画の芸術としての価値を理解していませんでした。
ですから古い浮世絵などは粗末に包装紙がわりに使われていたのです。その埋もれていた価値を見出したのは外国人でした。そして美術品として、またアンティークとして浮世絵は評価される(価格が上がる)ようになったのです。
ちょうど、その正反対のことを現代日本の若い女性たちがやってのけたのです。 日本人がスージークーパーを再評価して、その価値をアンティークへと押し上げたのです。
私たち日本人はもっと誇ってよいと思いませんか。
合掌
あんてぃーく遊民 店主